言葉じゃかなわないけど

圧倒的な何かを目の前にすると、言葉なんてかなわないと思う。だいたいのことは言葉にできると信じているけれど、特に圧倒的でささやかな幸せのようなものを前にすると、言葉なんてかなわない。

意味のない会話、意味のない沈黙、温度と湿度、食事、体温、そういう意味のないものにこそ尊さがあるのに表現しきれない歯がゆさがある。

激情を表現するほうがずっと楽だ。ダムを決壊させてなだれ込んでくる感情に対峙して、押し流されないようにだけして心の動きを観察していれば、言葉が紡がれておのずと一枚の布になる。だけど、本当に尊いものは言葉にできない。言葉にしてはいけないような気がする。

言葉というのは多くの場合、これはここからここまでですよ、と物事を切り分けてしまうことだ。切り分けなければ主旨のない話になって何も伝わらないのに、切り分ければ取りこぼしてしまう。言葉は本当に非力なメディアだ。良い絵や写真には意味のない会話や沈黙、温度と湿度、食事、体温のような要素がそのままぼんやり含まれている。意味のない世界を何も損なうことなしに閉じ込めて他人と共有できるのだから素晴らしい。だけど、ほとんどの言葉の仕事はそれができない。そのことにときどき無性に絶望したりする。

私が“言葉を覚えた”のは、何も伝わらない日々を長く過ごしたからだった。シンプルに説明がうまくないという理由はあっただろうけれど、思春期までの間は親が相手であっても心を通わせられたと思った瞬間はそうない。仲が悪かったわけではない。ただ、言葉が通じたと感じたことはなかった。何とかして図で説明したり、言葉を尽くしたりするのだが、一向に理解されず、「わからない」や「不思議」で片づけられる。私は私のまますべてを理解してほしかった。だから追体験してもらえるようにするにはどうしたらいいかを考えて、心の動きをそのまま言葉にする練習をするようになった。

ときどき、私の文章を読んで泣く人がいたり、怒り狂う人がいたりする。泣いてもらえるのは何だかうれしいにしても、怒り狂う理由はほとんどが理不尽なもので正当風の理由を並べ立てて、当たり散らすように怒り狂っている。

「私だったらこうするのに」
「私だったらこうしないのに」
「私だって我慢しているのに」

私は自分のことを書いているだけなのに、彼ら彼女らは文章を通して自分自身を見ている。理不尽な怒りを差し向けられるのは疲弊するし迷惑なのだけれど、一方でうれしい。私の文章を通じて感情を揺り動かしてくれたということは、私の頭の中のことがそのまま伝えられたということだ。そういうときは疲弊するし迷惑だけれど、そういうときだけは人とつながれた気がする。言葉をやっていてよかったと思う。ほんのときたま。

私も良い絵や写真やそのほかの芸術と同じように、伝えたい物事を削るでもなし、尖らせるでもなし、損なうことのないそのまま伝えられるようになりたいなと思う。尊くて美しい何かを見つけたとき、瞬きをするようにして刹那を捕まえたいと思う。

言葉が言葉である以上、それは難しいことだけれど、やっぱりそういうことができるようになりたいと思っている。良い絵や良い写真やその他の良い芸術、尊くて美しい刹那を目の当たりにするたび、折に触れてそう思う。

“言葉じゃかなわないけど” への1件の返信

  1. はじめまして。
    私は音楽をやっているのですが、音楽も言葉と同じくらいかそれ以上に、自分の表現したいことを聴いているひとに伝えることは難しくて、自分の演奏を振り返るとゆううつな気持ちになります。
    でも、文章のプロでさえ言葉で伝えることに困難を感じるのなら、アマチュアの演奏者のわたしは伝えようとする前に、伝えたいことを整理する、そのためには自分に向き合うことが大事なのかもしれないと思いました。
    ひとに伝えることと自分を知ることは表裏一体なのかもしれないと思いました。
    的外れな感想かもしれませんが、気づきをいただきました。

    佐々木さんの文章がすきです。
    応援しています。

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